東日本大震災から六年。


2017/03/11

東日本大震災概要
2011年3月11日午後2時46分(現地時間)
宮城県牡鹿半島の東南東沖130km、仙台市の東方沖70kmの太平洋の海底を震源とする東北地方太平洋沖地震が発生。
地震の規模はモーメントマグニチュード9.0。
発生時点において日本周辺における観測史上最大の地震である。
震源は岩手県沖から茨城県沖までの南北約500km、東西約200キロメートルのおよそ10万km2という広範囲であり、この全てが震源域とされる。
最大震度は宮城県栗原市で観測された震度7。
宮城・福島・茨城・栃木の4県36市町村と仙台市内の1区で震度6強を観測。
この地震により、場所によっては波高10m以上、最大遡上高40.1mにも上る巨大な津波が発生。
その他、液状化現象、地盤沈下、ダムの決壊などによって、北海道南岸から東京湾を含む関東南部に至り被害が発生した。
東北地方と関東地方の太平洋沿岸部に関しては津波の影響が大きく壊滅的な被害を被った。
地震から約1時間後に、遡上高14〜15mの津波に襲われた東京電力福島第一原子力発電所は、1-5号機で全電源を喪失。
原子炉を冷却できなったため、1号炉・2号炉・3号炉で炉心溶融(メルトダウン)が発生。
これにより大量の放射性物質を漏洩させる結果となった。
このすべてにおいて、事態は未だ収束してはいない。





これが東日本大震災における大まかな概要だ。
事故が起こった瞬間、わたしは大阪にいた。
自分は被害を被ったわけではなかったが、この瞬間のことを今でも鮮明に覚えている。
2011年3月11日という日は、わたしのそれまでの人生で築いてきた考え方や価値観を、かけらも残らず打ち砕いた。
(しかしそのことに気づくのは、後に我が子が生まれてからである。)


東日本大震災を思い返すとき、東北に赴いたことのないわたしには、被災者の方の、事故当時を語る顔と声だけが、恐怖と切なさを伴って思い返される。
ただただ、被害を被られた方々の心の復興を願い、亡くなられた方々に黙祷を捧げるばかりである。
それから、国内にとどまらず世界中から支援の手を差し伸べてくれた方々に感謝し、被災地・日本・世界の未来のために、自分自身に何ができるのかを模索し、それを実行し継続していくことを改めて決意する。

それとは別に、この日だからこそ、書き残したいことがある。
日本は原爆被爆国でありながら、東日本大震災が起こるまでわたしは *NUCLEARについて、何一つ知らなかった。
自分の無知ゆえの恐ろしさに気づいたとき、どうして、周りの大人や先生たちは何一つ教えてくれなかったのだろうかと嘆いた。
*日本は原爆被爆国であることから「核(殺傷兵器)」と「原子力(発電)」という2つの言葉を使い分けているが、わたしはどちらも同じだと思っているのでここでは英語で表記する。


天災は免れようがない。命は儚い。だから人の一生はいろんなものに満ち溢れている。
しかし福一の原発事故は、人災である。
東京電力、日本政府、電気を使っている人々のせいではない。
わたしたちみんなのせいである。
これに加担していない大人はいない。
自己中なオバさんも、無関心な若者も、国会で居眠りばかりの議員も、ブラック企業も、学歴主義も、格差社会も、小さな島国にある50基以上の原発も、紛れもなくわたしたちが作り上げてきたものだ。
それはわたしたちみんなのこれまでの「生き方」の姿である。


原発事故に関しては収束の見通しはない。
放射性物質は、気の遠くなるような未来まで放射能を出し続けるからだ。
わたしたちと、これから先のすべての世代は、この絶望を直視して生きなければならない。
だから、哀しみを過去に置いていこう。
生きる者には、新たな幸福が訪れる。巡る春のように。
過ちを二度と繰り返さない決意を、子孫に語り継ごう。
それが、わたしたちが果たさなくてはいけない唯一の使命ではないだろうか。
それが、今本当の意味での、愛する我が子へとつなぐ「命のバトン」ではないだろうか。

黙祷ー
























comment (-) @ 日々
弟が執筆しました | 父と母が東京に行ってきた。